ちょっといい話

第167話 あなたは、どうするの?

挿し絵 今回は、“山猫美紀”さんからの「仏教は自殺についてどう考えてるの」に関連して、自ら命を絶つことについて、ご一緒に考えてみます。

 玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)さんと瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう)さんの対談集『あの世この世』(新潮社)の中で、玄侑さんがこんなことを言っています。
「仏教とは言えませんけど、私は『自殺も殺人』という考え方をお話したいですね。日本仏教は六道とか十界と呼ばれる心の階梯(かいてい)が、一人の個人の中にあると考えますよね。だから一人の中には無数の自己が住んでいるわけです。無数の自己を一つの町内会だと考えると、町内会長が、もうこの町内はだめだよと悲観的になっちゃって、町内会に火をつけるというような行為が自殺というものだと思うんです。だから殺人なんです、自殺は。自分のごく一部が大半の自分を殺そうとしている行為ですね。」

 また、私の聲明ライブの日に、一緒に出てくれているデュオグループ“プアン”のトモさんは「明日は明日の風が吹く」という曲の中で
「自ら命を捨てるくらいなら、他に捨てるものがたくさん有るはず」
と歌います。

 仏教者の立場から松涛 弘道(まつなみ こうどう)先生は『仏教のわかる本』(弘済堂)の中で
「原則的には自ら命を絶つことは認めていないが、最終的にはその時の状況をよく判断した当事者の決断に委ねられる」
と言っておられます。

 仏教は、あなたはどうするのか、という自主性をもとにしていますから「自殺は悪である」という言い方はしません。だからこそ、私たちお坊さんは、自殺した方の供養では真摯に“自分で選んだ道だったのですね。どうしようもなかったのですね”と死者をいたわりつつ、仏さまにお願いをします。
 私自身は精神的苦痛であれば、時間をかければ考え方の方向転換ができそうな気がします。玄侑さんの例え話でいえば、町内会長の悲観に対して町内の八百屋の旦那が言う「ちょっと待ってくれよ。勝手に火なんか付けないでくれよ。せっかく家を建て直したばかりなんだから」という声が聞こえそうな気がします。長屋のご隠居が「冗談じゃないよ。来年の孫の婚礼が楽しみなんだから」という未来を語る声が聞こえそうなのです。
 しかし、正直なところ修行不足ですから持続的な肉体的苦痛に耐えられるのかどうか、自信がありません。このあたりのことは、読者のみなさんからご意見をいただきたいところです。

 密蔵院にまだ入って日も浅いころ(20年前のことです)、檀家さんの親戚の息子さんが自ら命を断たれました。私は彼とは面識がありませんでしたが、私がお葬式をすることになりました。悔し涙の中でお父さんが語る息子さんの話をきいているうちに、私も悔し泣きして、こう言ったのを覚えています。
“もっと早く彼と知り合っていたかった”
――以来私の布教活動は、自殺予防としての仏教の考え方をお伝えすることが土台になっているような気がします。今回は“山猫美紀”さんに、私の活動の土台を改めて気づかせてもらいました。ありがとうございました。

 さて次回は、ちょっと、というよりかなり趣向を変えて、芝居の台本に挑戦してみます。リクエストをくださった方々、しばしのご猶予を願います。