ちょっといい話

第173話 生き方と肩書き

挿し絵 この10月から、東京・荻窪の文化センターで般若心経の講座を一つ受け持つことになりました。講座タイトルは「…なんだそうだ般若心経」。お坊さんが一般の人と接触できるいい機会なので、月1回、全6回を楽しくやらせてもらおうと思っています。

 さて、支配人と面接した時に、一応履歴書をお願いしますと言われたので、学歴、職歴、現在の役職、活動などを書きました。これは私が今までにどんな生き方をしてきて、現在どのような生き方をしているかという資料です。雇用する側にとって、私という人間を総合的に把握しておく必要があるので、過去の履歴も必要になります。つまり仕事をしたり、してもらったりする以上、元○○も含めて、肩書きが必要になるということでしょう。
 ところが、仕事以外の人との付き合いの場では、その人の“生き方”を知っておくことは有効であっても、肩書きは必要ないでしょう。

 なんでこんなことを書いているかというと、ここ2、3年で団塊の世代といわれる人たち80万人が定年を迎えるからです。企業戦士と称されて、日本の高度経済成長を推し進めてきたバリバリの方々は、ピラミッド型の会社組織の中でしのぎを削って自らのアイデンティティを確かめてきた世代でもあります。
会社での“肩書き”が大切な分身であったと言ってもいいでしょう。社会的に認められている肩書きであれば、それはその人の栄光と同一視されていました。
「うちの主人は、このたび部長になりまして……」
と自慢げにおっしゃる奥さま方のセリフは、テレビドラマの中でもずいぶん使われていました。

 定年を迎える人たちも含めて、過去の自らの肩書きは(生き方は別ですが)捨ててしまった方がいいかもしれません。仕事以外の場で“私は昔、○○会社の部長をやってまして”“以前は○○関係の会社の取締役でした”――こう自慢されれば一応の義理として“へえ、そうなんですか。たいしたものですね”とは言いますが、内心“でも、今は違うでしょ”と思います。
 自慢話でしていいのは(つまり、聞いている相手が不快に思わないのは)、ふるさと自慢と親自慢だけだそうです。

 自分の過去の肩書きを自慢することで今の自分を確認するような生き方はしたくないものです。
 さて、次回はサッカーのW杯で思った慈悲の根源について、“昨日の敵は今日の友”でまいります。甲子園予選の熱戦真っ只中、相手チームに、あなたはどんな思いを持ちますか?