ちょっといい話

第179話 仏教と仏道

挿し絵 世の中“般若心経ブーム”なのだそうだ。この秋に出版される拙著『人生荷物の整理の仕方――般若心経から読み解く――(仮題)』(経済界出版)も、そのラインにのっている(詳しくはまた書きます)。
そして、奇しくも時を同じくして、この10月から東京の荻窪の読売文化センターで『……なんだそうだ、般若心経』という講座を月に一回受け持たせてもらうことになった。この講座では、本には過激過ぎて書けなかったり、分量がオーバーでカットした話をふんだんに盛り込んだ全6回にしようと意気揚々である。
 団塊世代が再び勉強意欲を持っている今、カルチュアセンターの講座内容を見ても、日本の文化の底流として、感性や思考の淵源(えんげん)としてまだまだ厳然と存在している仏教について知りたいと思っている人は多い。これを読んでくれている方もその一人かもしれない。バンドをやっている若者(特にロック系)の多くも仏教に興味を持っている人が多いそうだ。

 輪廻(りんね)、無常(むじょう)、空(くう)、唯識(ゆいしき)、華厳(けごん)……そんな二千年以上にわたる仏教の蓄積は、「神がいるかなんかはわからないから、それはとりあえず横へ置いておいて、私たちの心と周りの現象から、確実に言えそうなことを掘り起こしてみましょう」という探究の歴史の成果でもある。
 私自身は、坊さんとして忙しい父や兄の手伝いができればいい、という単純な思いから、坊さんの資格だけでも取っておこうかという軽いノリで坊さんになった。だから大学で僧階単位はとったものの、専攻は米英文学である。必要最低限の真言僧侶としての仏教知識しか持ち合わせていなかったのである。そして、卒業してそのまま恋愛→生活の安定→そのまま坊さんというルートを辿った。

 亡くなった人はどこへいくのかということに確信がもてずとも、お経は読める。塔婆も書ける。仏教の考え方や知識だけなら、本を読めばなんとか話せる。自分が坊さんとして生活するためのことならどうにかなる。
 しかし、問題は、自分が仏教の上にどのように生きているかという実感だった。それは、日常の中での仏教の実践であり、伝統文化としてではない掃除や会話や子育てなどの日常と仏教がどう関わっているのかという模索である。日本語で言えば“体得”という言葉になるだろう。

 私はくれぐれも仏教を蘊蓄(うんちく)として語ることがないようにしたいと思っている。空論だとバカにされたくないと思う。仏教は知識でも学問でもなく、空理空論でもないはずだ。体得してこそ、仏道になりえるはずなのだ。
 仏教は思想、思索的側面。仏道は実践的側面を強調したい時に使われる言葉なのだ。

 さて、次回は、劇的な甲子園終了を受けて「負けた回数」でいきます。甲子園に熱狂した人ほど読んでいただきたいと思います。