ちょっといい話

第190話 ユーモアで包んじゃえ!

挿し絵 仏教とユーモアがどう繋がるのか、どんな具合に絡むのか……。確かなことは言えません。
 お釈迦さまや弘法大師、他の祖師方の記述や伝記の中にユーモアや冗談を言ったという記録を見いだすことはなかなかできないようです。一休さんや良寛さんは、その点でとても特殊です。

 3年ほど前に、真言宗の学者であり、同時に熱烈な弘法大師信者でもあるお坊さんに、こんな質問をしてみました。
「弘法大師やお釈迦さまは冗談を言ったでしょうか」
 私自身が冗談好き!ユーモア大好き!なので、そんな自分が祖師の生き方から逸脱していないか不安になったからです。答えはアッという間に返ってきました。
「そりゃ、言っただろう。冗談が言えるくらいの度量がなければ、あれだけ大勢の人がついてくるはずがないだろう。もちろん、文献の中にはそういうものは残っていないよ。それは“冗談”とか“ユーモア”が文字として残った場合、誤解される危険性があることを知っていたからだろうね」
 私は“我が意を得たり!”の心境でした。深山幽谷の人里離れた所に暮らして修行していれば、他愛もない冗談を言うこともないでしょう。また、真面目な話をしている時に、その話の流れを阻害するような下品な冗談は禁物です。しかし、人と会話をする時、“冗談”や“ユーモア”は良い人間関係を作る潤滑油の役目を果たしてくれます。

 ――と、ここまでは、これから先の話を正当化するための序論。もうとにかく、この1年半は浪曲ばかり聞いているのです。加えて、9月に広沢 虎造の「清水次郎長」全集を通信販売で手に入れてから、普通の会話に渡世人(博打打ち)言葉がつい出てしまい困っています。
 久しぶりに会う人には、「いやぁ、どうも。貧乏暇なしで、無沙汰ばかりで申し訳ありません」とだみ声になる。
 何かを人に勧める時には「おお、上がっちくんねえ」「やっちくんねえ」「遠慮するこたぁねえぜ」と右手が前に出る(「この調子で「ちょっと、待っちくんねぇ」と言ったら「マッチはありませんからライターでいいですか」と受けてくれた人がいました。私は一瞬凍りつきました)。
 お別れする時には「そんじゃ、えらくお世話になりました。縁と命があったら、またお会いいたします、と言いてぇところだが、おめぇさんとは縁もある、お互い命もありそうだから、きっとまたお会い申し上げます。それまでひとつ、達者でいちくんねぇ」
 言っている私は楽しくて仕方がないのだが、隣で聞いている家内や長男は、「悪いことは言わないから、もうやめた方がいいよ」と冷静に忠告してくれています。さてどうしようか……。

 さて次回は久しぶりにリクエストに応じて“あんな人になるために”でいきます。自分が尊敬している人のようになりたいための、一手段の“真似”について考えます。人からすぐ影響を受ける私にはもってこいのお題であります。