ちょっといい話

第195話 自分の居場所

挿し絵 仏教に「無住処(むじゅうしょ)」という言葉があります。漢字から“住む所が無い”だからホームレスだと思ったら大間違い。これは、特定の場所に留まっていない、縛られていない、自由にどこにでもいられる――という、とてもいい意味です。

 今回のお題のリクエストをくださったのは“みみなの父”さん。
みみなさんのお父さんもお母さんも喘息で、そのお母さんが入院中。お母さんがいない家でみみなさんがお母さんの役目を担っています。「よくがんばってくれています」とご両親は口を揃えておっしゃいます。
 家と学校と病院の3カ所を行ったり来たりということに、すこしウンザリしているかもしれません。もっと友だちと遊びたい買い物にも行きたい!とも思うかもしれません。
 そして、多くの大人も家と仕事場の往復。自分の身体がそれだけに束縛されていると思う人は多いでしょう。「これでいいのだろうか?」と疑問に思う人は少なくありません。

 もし、自分が同じ所で、同じ立場でいることにイライラしているようなら、ちょっと考えてみましょう。ちょっと気づいてみませんか。
 私たちはいつも同じ、たった一つの自分でいるわけではありません。子供という立場(居場所)、生徒という立場、友だち、姉、母親役、父親役、バスに乗れば乗客になる、買い物すればお客さんになる……そんなたくさんの自分が入れ替わり立ち替わりしています。ちっとも縛られてなんかいないんです。
 しかし、身体は一つ。分身の術は使えません。ならば、身体に関してはもう諦めるしかありません。誰かのために、その一つの身体を使うことは素晴らしいことです。今やらなければならないことを、この一つの身体を使ってやるしかない、やるっきゃない!―――ここにドッカとあぐらをかくしかないんです(と思わず力が入りますが)。それを楽しんでやりましょうよ。笑顔でやりましょうよ。

 現実の生活では「自分の居場所」が束縛されていることにイライラしたり、逆に「居場所がない(安心して居られる所が無い)」ことが不安になることがあるかもしれません。でも、そんなふうに、心にマイナス要素が出てきた時こそが、心を磨くチャンスなんです。
 「束縛されている」と感じる心は、私の場合、道端の草、落ち葉、流れる雲に関心を持つとずいぶん変化します。自分で自分の心のアンテナを固定していたから、そんなことには目が向いていなかっただけなんだと気づくんです。
 「居場所がない」と不安に感じる心は、両手で自分の頬を包んでみると安心できます。「こんなにあったかい!命があるじゃないか。生きてるじゃないか」と、自分の命に自分の居場所がもともとあったことを再確認できるんです。
 『身体は一つ、心は無住処』――そんな心意気でいきましょうや。

 さて、次回は心つながりで“ここみのPAPA”さんからいただいた「心ってどこにあるの?」というご質問から、“心はどこにある”でまいります。脳でしょうか、ハート(心臓)でしょうかねぇ……。こりゃ面白くなりそうだ。