ちょっといい話

第196話 心はどこにある

挿し絵 “ここみのPAPA”さんから、お題というより、質問?をいただきました。

 “色々な事を考え、感じるのは、頭ですよね?暑い、寒い、苦い(にがい)、美味しい、嬉しい、悲しい、好き、嫌いなどを感じるのも指先や、眼や、舌から脳に伝わって感じるわけでしょ。よく使う言葉に、「こころが痛む」って言いますけど、「心」ってどこにあるの??”――という言葉が添えられています。

 面白いですよね。心は頭にありそうだけど、「心が痛む」とジェスチャーする時には、両手で胸の真ん中を押さえますものね。
「アッシの心意気を見ておくんなせぇ」と啖呵を切る時には、どーんと平手で心臓の上を叩きますものね。ほぼ日本語になっているハート(heart)という言葉も英語では心臓の意味です。だとすると、私たちは昔から、心は胸の中にあると感じていたんでしょうね(世界共通かどうかは知りませんけど)。
 仏教でも心の問題は昔からずいぶん議論されてきました。そこから「この世の事物・現象は、客体として実存しているのではなく、人間の心の根源である阿頼耶識(あらやしき)が展開して生じたものなのだ」とする唯識(ゆいしき)という学問が確立してきた経緯があります。

 では心は、いったいどこにあるのか?頭か胸か心臓か。科学的には頭脳全体ということになるんでしょうね。
 しかし、私は“心の発信源を物理的に解明すること”を云々してもあまり意味がないような気がするんです(医学的にはたいへんな意味がありますが)。
 心で感じたことを私たちは、ニッコリ笑った目や口元で表します。思いが同じことが分かって感激してする固い握手、子供が悔しがってする地団駄など、私たちは全身に心があるようです。
 他にも、家族やお客さんのことを思って作られるお料理にも心がこもっています。つまり物にも心があるということです。世の中、お歳暮シーズン、そして迎えるクリスマス。私たちは単に品物を差し上げているのでも、もらっているのでもありません。心を差し上げたり、もらったりしているのだと思います。

 こころと言うのは、特定の場所に留まっているわけでもなく、そこらじゅうに遍満(へんまん)しているのだと思うのです。  前回と同じような話になってしまいますが、私は「心はどこにあるの?」と聞かれれば、「心ここにあらず」と頭を指さして冗談っぽく答えるでしょう。

 さて次回は札幌の“ましゃ”さんからいただいたお題「心の病気と気持ち」で年越ししてまいります。私が病気だった父に対して何気なく使った「病(やまい)は気からって言うんだからしっかりしなよ」という言葉に、父がどう反応したか……。そこから書きすすめていきます。