ちょっといい話

第164話 トドのつまり

挿し絵 今回の話は、魚のボラが成長するにつれて呼び名が変わり、最後にトドと呼ばれるな〜んてことを書く訳ではありません。159話から進めてきた日本人の霊魂観念と、脅迫詐欺(霊感商法)がかたよった解釈の仏教語を使って皆さんの心を悩ますカラクリについてまとめようとつけたタイトルです。
 自分に不都合なことが起こった時に、私たちはその原因を知ろうとします。その原因が判らない時に霊を登場させます。ここで、私が敬愛してやまない曹洞宗の中野東禅先生の言葉を引用させていただいて、な〜るほどと思っていただきたいと思います。


 「霊信仰では“霊”が本尊でありカミさまであり、を支配する絶対者になってしまいますが、仏教では真理を本尊とし、自然感情としての霊観念などは、その中につつみこまれることによって、より美しい霊観念に昇華すると考えます。
 素朴な宗教感情や、誤った観念でもすぐに否定しないで、より高いさとりの立場になることをすすめ、そこから、先祖の観念や死者観念を照らすのです。それらは否定しあうものではなく、共存しあうものです。死者霊を本尊とするのではなく、さとりと愛につつまれ照らされて死者への想いを大切にするのです。すると、死霊観念はたたりとしてではなく、愛として昇華して共存するのです。
 愛があって霊をみとめるのは感謝型であり先祖まつり型です。それが正しい仏教につつまれて、さらに徹底すると、さとりの立場になります。そこでは死者をいたわっていながら、霊にこだわらない立場です。ところが、愛がなくて恐怖心や負い目のある人が霊があるというのはたたり型になります。あるいは、そうした人が霊を否定すればニヒリズムになります。」

 「霊信仰は支配者を想定して自分の不幸につじつまを合わせることだといいましたが、観音さまや、阿弥陀さま、地蔵さまなどに祈ったり、礼拝するとき、私たちはこれらの仏の威力という支配力を期待しています。すると、そのちがいはいったいどこにあるでしょうか。
 霊というものは、人間の負い目やしがらみや欲望や怨念によって形成された支配者です。それに対して観音さまや阿弥陀さまは、人間のご都合を越えた“縁起”“空”という真理の象徴です。ですから仏さまに祈ることは、人間のご都合をこえてあるがままの真実や真理におまかせする心を呼び起こすのです。
 それゆえに、仏さまを礼拝していると、はじめは人間の欲望で祈りはじめても、いつしか真理と共鳴し、真理におまかせできるようになるのです。」


 勇気を出して、自分の心を奥そこまで見つめてみる。そこにこそ、いま抱えている問題の解決策が用意されています。近くのお寺の本堂でじっくり座ってみたり、それが無理なら本堂の前で手を合わせて、“こんな時、仏さまならどう考えるだろう、そしてどうするだろう”と自問してみることをお勧めします。
 さて、ゴールデンウィークをはさんで次回は、春日部のtomoさんからのリクエスト“アイデンティティ”でいきます。“かけがえのない自分”はどこにいるのでしょう。